qaaaaaaaの雑雑雑ブログ

ふにゃふにゃふにゃふにゃ……

「lobotomy corporation」「library of ruina」感想

「lobotomy corporation」「library of ruina」この2タイトルを先ほどようやくクリアしました。長かった……。どちらもかなり高難易度かつストレスフルな造りでかなりのカロリーを消費したが、それに見合う傑作だった。
 LOR(library of ruinaの略)の制作者インタビューで触れられてた通り、LOR、LC(lobotomy corporationの略ですよ、奥さん)両作品通して重要なキーワードになる光の種計画にはエヴァ人類補完計画を彷彿させる物があった。LC後半でカルメンと木漏れ日の中に寝そべる下りの「自分を消すの」の台詞と演出なんかにもそれは現れていて、個の消失やある種の涅槃、死などのイメージが光の種計画と人類補完計画の上に共通して重なっているように思う。
 LCでうまく行きかけた光の種計画が、lobotomy社の施設を統括するAIであるアンジェラの、無間地獄のような施設の中でいつの間にか生まれていた自我によっておじゃんになった直後からLORの物語は始まる。LCのエンディング、つまり光の種計画の破綻を見て自分はある種の直観として、「この結末で良かったのだ」と思ったのだがLORの物語はまさしくLCの結末をいかにして我々は肯定できるのか? という問いが主題になっていたように思える。必然としてLORでは苦痛の意義や、苦痛と個や自我の間にある不可分性、そうして生まれた自我の中から立ち上がってくる本当の望み、に関する洞察が多く含まれていてストーリーは神義論のような様相さえ呈していた気がする。
 LORのクライマックスでは残響楽団という団体がおもな敵になるのだが、彼らがすごく魅力的だった。まず、実際にゲームをやって彼らを目にしてみれば解るのだが、いい意味ですごくラノベっぽい。久々にこういう感じの敵組織を見れてすごくワクワクした(お揃いの燕尾服みたいなユニフォームをきちんと仕立てて大一番でビシッとキメてくるのも良かった)。
 残響楽団はそれぞれに絶望を経験し、その結果「ねじれ」という現象を経て怪物と人間の中間のような存在に変貌してしまった人々によって構成されているのですが、ねじれて自分の本当の望みを見つけた、或いは自分の本当の望みをきっぱりと諦めた彼らが恐らくは(色々と解釈の余地のある話ではありますが)完全な光の種計画の完遂のために主人公達の居る図書館へ乗り込んでくる清々しさ、物悲しさは個人的にはかなり思うところがありました。残響楽団の面々と主人公側のキャラクターのやりとりもすごく良くて、特にオズワルドとティファレト(LCの時点から自分はティファレトが一番好きなキャラクターでした。エノクとのエピソードもすごく良かったし、LORでの精神的に成長した姿を見るのは非常に感慨深かった。本当に立派になっててびっくりした)の期待と怒りを巡る話がお気に入りです。楽団員とのやり取りではどのキャラクターも投げかけられた問いや、相手の主張を前にして自分の中にある嘆きや迷いを吐露し、答えを保留としつつもその上で自分の持ち場を守るという結論を下すのですがそうした姿勢は個人的にはすごく好感が持てました。楽団の襲来の少し前、シャオというキャラクターのエピソードで「絶望と希望はどちらも私たちを盲目にするという点で似通っていて、しかもそれらはしばしば私たちを同じ結末、つまり破滅に連れてゆくのだが、それでも私たちがこの二つを明確に区別してきたことには理由があるはずだ」みたいな下りがあってそれを踏まえると楽団がらみのやりとりはより味わい深く感じるようにも思います。
 あと作中、主人公がしばしば口ずさむ

俺には苦痛しかありません。
それ以上の何物も望みませんでした。
苦痛は俺に忠実で、今も変わりありません。
俺の魂が深淵の底を彷徨うときにも。
苦痛はいつもそばに座り、俺を守ってくれたから。
どうして苦痛を恨むことが出来ましょう。
ああ苦痛よ、お前は決して俺から離れなかったゆえ
俺はついにお前を尊敬するまでに至った。
俺はようやくお前のことがわかった。
お前は存在するだけで美しいことを。
お前は貧しい俺の心の火鉢の傍を決して離れなかった人と似ている。
俺の苦痛よ、お前はこの上なく愛する恋人より優しい。
俺は知っているだろうか。
俺が死に就く日にもお前は俺の心の奥深くに入り
俺と共に整然と横たわらんことを。

という詩もすごく良かった。ちなみに、調べてみたらフランシス・ジャムという人の「苦痛を愛するための祈り」という詩らしいです。読み上げる声優さんの演技も堂に入っていて、すごく魅力的だった。
 総評として「lobotomy corporation」「library of ruina」すごく良かったです。本当にゲームのストーリーにここまで夢中になった事ってそんなに無い気がするくらい。
 みんなもproject moon作品を是非遊んでみてください、そして高難易度とストレスフルさ、理解するべき情報の洪水を前にして悶絶して欲しい。俺一人だけが苦しむだなんて許せないから……
 俺には苦痛しかありません。それ以上の何物も望みませんでした……

ゴーゴリ「外套」の感想

 

 

 ゴーゴリの「外套」という小説を読んだ。かなり面白かった。話の筋や、オチを楽しむタイプのユーモラスな作品だと漠然と思い込んでいたのでかなり面食らった。
 確かに、ユーモアのような物は感じられたのだが、それがあまりにも私の想像を超えていたので完全に圧倒されてしまった。
 「ダムネイション」という海外ドラマで殺し屋が人生を揶揄して「不条理で、長い、退屈な冗談」とあざ笑うくだりがあるのだが、それが思い出される。
 中盤辺り、外套を完成させてから盗られるまでの下りが異様な緊張感に満ちていたのが印象的だった。これから外套を失うのは解りきっていて、その瞬間を待つしかないあの間は恐ろしかった。あの感覚は、この世に対して裏返しの信頼感を持っている人間、主人公の同類みたいな人間でなくては理解できないかもしれない。
 私は、割と最近に書いた小説で「外套」に描かれていたのとよく似た題材を扱ったつもりでいたのでその分、「外套」のキャラクター造形の巧みさや道具立てに関するゴーゴリの勘の鋭さのようなものに意識を傾けて楽しむことが出来たようにも思う。また、自分の中にある物を「外套」の中に見出したことによって、雲の上の人である、遠いロシアの文豪の面影がそれとなく親しみやすいもののように思えてくるのが大変不思議で嬉しい。
 昔は、こういった偉大な作品に触れた時、特に自分のそれと何らかの共通点を持つ物に触れた時、劣等感に駆られて絶望してしまう事がしばしばだったのだけれども今回はあまりそういったことは無かった。年月が私に身の程を教えてくれたのだとしたら、歳をとるのも悪い事ばかりではないと言えるのかもしれない。
 ところで、私が「外套」を読むつもりになったのはAmazonPrimeで「魔界探偵ゴーゴリ 暗黒の騎士と生け贄の美女たち」という映画を見た事が切っ掛けでして、映画の中でゴーゴリが、両目のあるべき所に黒々とした煤煙のような何かがみっしりと詰まった恐ろしい人物、として作中の妖怪や魔女たちにしばしば幻視されるのをそこはかとない疑問を抱きつつ見ていたのですが、「外套」を読んでそこはかとなく、そのビジュアルのリアリティのようなものが理解できたようにも思います。
 最後に、これは……何だ?

https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E7%9A%84%E7%9A%AE%E8%82%89%E3%81%AA%E5%A3%B0%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%B4%88%E3%82%8A%E7%89%A9-%E5%AE%9F%E5%AD%98%E7%9A%84%E6%81%90%E6%80%96%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%AD%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E5%85%A5%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B4%88%E3%82%8A%E7%89%A9-T%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84/dp/B08WK1V6YL?customId=B07536XX75&th=1

 さっき、実存的恐怖、という語でググってたらこれが出て来ました。もし私がお金持ちだったら、これを片っ端から友達に送りつけていた、という未来も十分にあり得るので貧しくてよかった。実存的恐怖を抱きしめるには、それぞれのタイミングがあって然るべきと思うので……
 こういう実存的な何かが頻繁に星空と結び付けられることについて、実は私もそこはかとない共感を持ってはいるのですがキリがなくなっちゃう気もするので、今日はひとまずこれで。
 おつquaaaれ~

 

ソローキンの氷三部作感想

 五年近く積んでいたソローキンの氷三部作を最近読んだ。かなり面白かった。昔、同じ作者の「親衛隊士の日」を読んで、ロシア的な陰謀に満ちた世界観や秘密組織の描写のクールさに唸ったものだが氷三部作でもそういったセンスは健在だった。
 では、どうしてこんなに面白い本を五年間も積んでいたのかと言うと、それは一巻がかなりとっつきにくいからです。まじでとっつきずらい、話のキモとなる部分が出てくるまで延々と隕石の話や、シベリアのタイガの描写が続き、五年前の私はすっかりまいっちまったわけです。今から読む人は、一巻を一旦迂回して二巻から始めてしまうのも手だと思う。金髪碧眼の人間だけを片っ端から誘拐して氷のハンマーでシバいて回る謎の集団というのは、シベリアの風景よりも興味を維持しやすい(個人の感想ですが)。ただ、二巻から始めてしまうと一巻をどのタイミングで読めばいいのかと問題が新たに発生してしまうので、やっぱり一巻から読んだ方が良い気がしてきた。一巻もとっつきにくいだけで面白くないわけではない。隕石にたどり着いてからの後半部分は普通に面白い。チェキストとかルビャンカとか出て来るし。こういう単語が出て来るだけで何となく嬉しくなる。
 氷三部作の主要な題材の一つにはグノーシス主義みたいなものがあり、それに伴って神秘主義的な体験への言及もあるのだがこれは意図的に紋切型的な物として、距離を置いて描写されていたように思う。というか、小説全体で光の兄弟団に対して距離を置く工夫が凝らされていて、それは物語への結末と相まって、作者の、世界への内在という話題に対する態度が現れていたように思え、大変面白かった。
 結びのやり取りを今、思い起こすとそこにはまさにヨブ記的なサムシングや、みなしごであることを笑おうとする姿勢的なサムシングがあった気がするのだが、私はここ最近、何を見てもヨブ記と騒ぎ出す病気にかかっているので自分を信用できない(なんて悲惨な病気だ!)。
 「ヨブ記」と鳴く鳥に生まれ変わって人々を不安に陥れたい……。

最近のふにゃふにゃ

 この前、kindle殺し屋1という漫画を読み返したのがだがかなり面白かった。以前読んだときには気が付くことのできなかった、この世の他者性を楽しむ、ある種の超人としての垣原組長の姿が半端なくかっこよかった。彼が折に触れてこだわる「SMの必然性」(つまり、サディストはマゾヒストの本気の抵抗を乗り越えたのでなければサディストはマゾヒストにとっての絶対的外部ではありえないし、また、そのような存在でなければサディストはマゾヒストに対して決定的な絶望、垣原組長の望むような絶望を与える事はできない……らしいです。難儀すぎる)という概念は非常に普遍的で面白い物に思えるし、そういった事柄をSMや歌舞伎町という題材を使って描き出す作者の人のセンスは、本当に卓越していた。
 ところで、超人と言えば、最近「Mr.ガラス」と言う、超人をテーマにした映画を見た。超人を”治療”しようとする秘密組織や、今作の主人公であるMr.ガラスが超人の存在を確信した経緯(ガラスのように脆い私がいるならば、反対ベクトルにも外れ値は存在するはずだ!)など、ユニークなアイディアが各所にちりばめられていて面白かったが、個人的にはその中でも秘密組織から派遣されてきた精神科医のコミック論(コミックは欲望と願望の塊だ)に対するMr.ガラスの論駁(コミックとは人間の能力と、それを目の当たりにして抱いた感覚の記録である)が、最近、カフカセリーヌを少し読み、感覚的リアリズムという語を頭の端に留めていたという事情もあり、私には印象的に思えた(現実とはなんなのだろう……)。あと、三人の超人の中では実は「ビースト」が一番好き、彼の思想(失意の者こそ最強だ)になんとなく親近感を感じるし、闘う前に必ず服を脱いで咆哮するのがシュールでもあり魅力的でもある(そして、その仕草にはある種の必然性が感じられる。ビーストは恐らく三人の超人の中で最も自分の能力に対して懐疑的なので)。
 激しく話は変わって、最近、私は小説を書こうとしているのだが全然うまくいってない。最も深刻な問題は自分の関心がいまいち定まらないところにあるのだが、副次的な問題の一つにある種の能力の欠如があると思う。その能力と言うのはつまり、自分にとっての必然性に従って話を作る、展開を作る、出来事を作る能力であり、自分がこれまである種の推論に任せてストーリーを作っていたという事を痛感した。今、私が考えている作品の戦闘シーンにはプロレス的論理が必要に思うのだが、それをうまく想像することが出来ない(というよりもそれは内発性のような物を要求する類の物なのかもしれない)。なんかやっぱりいくつか材料が足りないような気もする。
 結びに、ここまで読んでくれたこのブログの読者の方にはお礼を言いたい。ありがとう。厚かましいようだが、ついでに、古代ローマ帝政期におけるキリスト教徒の魔術やエクソシズムに関してお勧めの資料、あるいはお気に入りの武侠、カンフー、道士を題材にした作品があれば是非とも教えてもらえないだろうか……。
 そいじゃ、おつquaaaaれー

 追伸 今回、話題にした三人の超人の内の一人、「ビースト」は以前、私がこのブログで話題にした映画「ザ・ビースト」とは何の関係もないです

「ザ・ビースト」感想(ネタばれ注意!)

 今、一番来ている映画俳優はニコラス・ケイジだ。その事は「マンディ 地獄のロードウォーリアー」や、今回取り扱う「ザ・ビースト」を見れば解る。
 原題は「primal」で原初の、とかそういう感じの意味だと思う。
 「ザ・ビースト」の良い所の一つは、あらすじの時点でめちゃくちゃ面白そうな事だ。
 主人公フランクは野生動物を捕まえて動物園に売ることを生業とするハンターなのだが、彼はある日、大変珍しい白豹を手に入れる。早速、白豹を国外に持ち出すために船へ載せるのだが、そこで不幸にも、囚われの殺人鬼ラフラーと乗り合わせる。港を離れた途端、案の定ラフラーは自由になって、従って白豹も自由になり、船の中は混沌の坩堝になってしまう……
 こんな感じの粗筋です。めちゃくちゃ面白そうじゃないですか? そうなんですよ。この映画はすごく面白いんですよ。
 この粗筋から細かい事を気にしたら負け、って感じの内容を想像するかもしれないんですが、全編に渡ってすごく地に足の着いた演出がなされてるように私は感じました。殺人鬼ラフラーのキャラには結構説得力があって、物凄く頭の切れる奴だというのが一発で伝わって来る。
 ラフラーはまじで何考えてるか解んないタイプなんだけど、他人の心の機微にはかなり敏感なようにも見えた。特に、相手と戦っている最中、何かしらの切っ掛けで生まれる敵意の空白のようなものを決して見逃さないし、毎回、そこに上手くつけ込んでピンチを脱していた。
 ラフラー以外の登場人物もすごく魅力的で船員のおっちゃん達なんかもめちゃかっこいい見せ場が用意されている。この映画のうまい所は登場人物を安易に英雄にしないところだ。そのおかげで、後からかっこよかったシーンを想い返したとき、そのシーンの魅力が何倍にも感じられるように私は思う。
 ところで、そろそろ、この映画で私に最も強烈な印象を残したシーンの話をしたい。
 この映画で最も強烈な印象を残したシーンにおいて、主役となったのは連邦検事のフリードという男だった。彼はラフラー護送部隊のメンバーだが、その職責はもっぱら事務や、責任者としてのそれで、ラフラーが自由に船内をうろつきまわっている状況で彼の果たすべき役割は無さそうだった。一応、彼もラフラーを捜索するチームに加わるのだが、ぎこちない手つきでアサルトライフルを扱う様子を見て、多分、殆どの人が彼が餌食に過ぎない存在だと思っただろう。
 実際にはそれは大間違いだった。映画の中盤、フリードと、ラファエルという護送部隊の隊員がラフラーに忍び寄ることに成功する。ラファエルは姿勢を低くして静かに狙いを定め、流石のラフラーも気付いていないのではどうしようもない。ところが、ラファエルの後ろに立ったフリードがナイフを抜き、彼の後頭部に深々突き刺したことによってラフラーは難を逃れる。
 フリードには独自の思惑があり、その為にもラフラーを殺される訳にはいかないのだった(その事が説明されるのは最終盤だし、大分おざなりで曖昧だ。重要でない、乃至、重要でないことが重要ですらあるのかもしれない)。
 ともかく、このシーンを切っ掛けに、ボウリングのピンでしかなかったフリードはプレイヤーに変わる(たとい、どんな最後が待ち受けているにしろ)。捕食者が被捕食者に、被捕食者が捕食者に目まぐるしく変じる様は大いに示唆的な物に感じた。
 強者と弱者を隔てる物の一つとして、意志の存在があるが、私はこれをあまり高く評価しない傾向にある。私の好みは決定論的な方向に流れがちだからだ(私はすごく怠惰な人間なので、その方が整合性が取りやすい。あるいは、諦念のような物が強く働いているからかもしれない)。
 だからか、今紹介した一幕のように、一人の人間の意志(言うまでもなく一人の人間の意志というのは混沌としたものだ)が威力を発揮してその不確実性を伝播させる場面、というのはやっぱり嬉しい。心が暖かくなる。
 そういう訳で、みんなも今年の冬、一番暖かくなれる映画「ザ・ビースト」を見て暖まって欲しい。マジで面白いから。
 そんじゃ、今日はこの辺で、おつquaaaaれー。

「ネオン・デーモン」、「やがて君になる」の思い出と量的リビドーの集中とかの話

 人生をシンプルにしたいという気持ち。ありませんか? ありますよね。私は、ちょっとあります。
 実は私はここ何か月か「アンチ・オイディプス」という本を読んでいました。すごい難しい本で正味な話、内容は殆ど理解できてないのですが、それでも何とか、後は補遺を残すばかり、というところまで読み進めてます。
 私が心を惹かれたのは「アンチ・オイディプス」全体を貫く「通貨」いう発想で(量的リビドーであり、糞であるところの物)私は、かつての自分が抱いた感慨を、このアイデアでようやく、自分に対して説明できるのではないかと思い、こうして筆を執った次第……
 で、自分に対して説明したい感慨って何よ? と、言いますと。これはレフン監督の映画「ネオン・デーモン」を視聴した際に抱いた感慨で、この映画は前評判、というか公開前の監督のインタビューでは女性的な物に関する映画との事だったのですが、実際に視聴してみて、私はこの映画からむしろ男性的な、マッチョイムズ的な何かを受け取り、しかもそれは恐らく、最もマッチョイムズから遠い所に位置していそうなある種の百合作品(当時、私が折身浮かべたのは「やがて君になる」でした)の中にも認められるような物だと思ったのでした。
 「ネオン・デーモン」の作中で、最も私の印象に残ったのは「美は通貨だ」という台詞でした。今にして思うと、まさにそのものズバリだな、と思うのですが、このセリフは実際、「ネオン・デーモン」作中での美という物の位置づけを良く表しているように思います。この映画の主人公たちは、言ってみれば「バガボンド」の宮本武蔵、あるいは「グラップラー刃牙」の範馬刃牙が強さに執着するようにして美しさに執着します。
 執着する事が美しいのか、あるいは、それ以外の全てを捨て去った事が美しいのか、という問題は一旦、置いて、こうしたシンプルさの魅力、というのは割かし普遍的なように思います。一昔前、有名な登山家が言った「そこに山があるからだ」という言葉は今もある種の姿勢を端的に表す言葉として世間に肯定的に受け止められているのではないでしょうか。
 ちょっと話が変わりますよ……
 バタイユは「文学と悪」という評論? 評論集? の中で「嵐が丘」を題に取った際、「ヒースクリフ、あなたは私なのよ!」という台詞に特に注目しています。バタイユは死という言葉を頻繁に、独自の肯定的な意味で用います(多分。体験、という言い回しと重なる部分もおおいにあるとは思うのだがその辺の詳しい事は解らない……)。これは死という物の、自己と他者の境界を破壊する性質に特に着目しての事で、先の「嵐が丘」の台詞と、ヒースクリフ、キャサリン両名の死という結末は、行き着く所まで行ってしまった愛の話の、必然的な最後としてバタイユには捉えられるわけです(多分……)。
 で、「やがて君になる」ってタイトルって、まさにそれじゃないですか! 最終的には誰も死なないんですけど、中盤までは自己と他者ではないんですが、他者と他者の境界にまつわる内容をがっつりやっていて、思弁的で危ない雰囲気があったんですよ。少なくとも、私は一人で浮足立っていました。
 以前、とある、ちらっとお見掛けしたブログ(URLは失念してしまいました……)で「オタクにとって美少女の果たすべき役割とは、恋人ではなく神だ」という事を言ってらして、鋭い方だな、とびっくりしたのですが私はどちらかと言えば、行き着く所まで行った愛は信仰である、という意見を持っています。先のバタイユの話に絡めるなら、だからこそ合一が志向される訳です。
 ところで、信仰という物の機能の一つは、人生をシンプルにすることではないでしょうか? 一般的に、宗教的な価値観においては量的リビドーを全て信仰に投入することは(それが可能か否かは別として)推奨されているように思うし、また、それは憧憬の対象であるようにも思います。
 話が取っ散らかっちゃったので力技でまとめるのですが、「ネオン・デーモン」は美に向かってリビドーを取りまとめ、「やがて君になる」では恋人に対してそれを取りまとめていた訳で、私がこの両作品に見た男性的なもの、というのはつまり、リビドーの流通に関する一神教的なモデルだった、と今の私は考えています。
 再びところで、「ネオン・デーモン」と「やがて君になる」では登場人物たちの愛の対象への積極性に割と差があるのですが(「やがて君になる」の登場人物たちは「ネオン・デーモン」のそれらほど主体的ではないような気がする」)、私は最近、「ローリング・サンダー」という映画を見返して、主体の放棄とそれに由来する静穏さ、という物について思うところを得たので、いつかはそれに絡めてまた、今回のように量的リビドーの集中に関する話をしたいですね。
 でも今日はこんくらいにしておきます。もう何も思いつかんので……
 そんじゃ、おつquaaaaaaれー

「スノー・ロワイヤル」感想

 「スノー・ロワイヤル」、去年あたりからずっと気になってた映画なのだが、なんとなく見てなかったのをようやく見た。めっちゃ面白かった。ここ最近見た映画の中で出色の出来だったと思う。
 あらすじを簡単に説明すると、息子を殺された男の復讐譚っていうめちゃくちゃシンプルな話なんだけど、全編通してのシニカルなユーモア、特に「気まずさ」と「非予定調和」にフォーカスを置いたセンスはかなり独特でかなり面白かった。
 「気まずさ」の可笑しみについて、文面で説明するのはちょっと難しいので割愛するが、「非予定調和」の方をは幾つか説明しやすい具体的なシーンが思い浮かぶ。私のお気に入りは、凄惨な遺体を目の当たりにした警察官達のシーンで、この映画ではベテランの方が嘔吐して新入りが口を拭く紙を差し出す(しかも、この新入りは退屈な町に飽き飽きしていたので露骨に楽しそうにしている)。「スノー・ロワイヤル」では万事がこの調子で進む。
 あと、中盤あたり、インディアンのギャングが復讐のため街に繰り出してくる→ホテルに泊まってスキー場のチケットをサービスで貰う→みんなでスキーに行く、の流れもかなり好き。チケットを受け取った時、渋い表情だったギャングのボスが一番はしゃいでいたのも印象的で、観る側としては「この可憐なおじさん達も殆ど死ぬんだろうな……」と可笑しみだけではない、ほろ苦い感慨や、残酷な期待を抱かされたように思う(あるいは残酷な期待を自覚したのかもしれない)。
 ところで、スキー場の下りで印象的なセリフが一つあって、インディアンの一人がパラセールみたいなのに挑戦する時(復讐のために町に出て来たのにパラセールみたいなのに挑戦しないで)、「俺は飛ぶために生まれてきた!」って叫ぶんですがめちゃくちゃ良くないですか? 私も「俺は飛ぶために生まれてきた!」って叫んでみたい……