qaaaaaaaの雑雑雑ブログ

ふにゃふにゃふにゃふにゃ……

「ジョーカー」のおもひで、とか

 みなさんは「ジョーカー」という映画を知っていますか? そう。去年になんか賞とか取った映画です。私は公開初日に最前列で見ました。なぜ最前列で見たかというと、一緒に見に行った友達になんか唆されたからです。そのおかげで字幕を読もうとすると画面全体を視界に収めることが出来ず、逆に画面全体を見ようとすると今度は字幕を読むことが出来ない……その上になんか首まで痛くなって結構大変だったんですがビールを飲んでたので平気でした。でも、最前列で映画を見るのは原則として、特別な意図がない限りは避けるべきだと思います。もちろん、ダメってわけじゃないですよ? ただね、私はね……お勧めしないよって……そういう話なんです。

 ところで、「ジョーカー」って結構邪悪な作為みたいなの感じませんでしたか? ある種の人々って「ジョーカー」をある種のリトマス試験紙だと思ってる節があると勝手に思っていて私自身も実際、映画館に行った晩、布団にながまりながら「#ジョーカー最高!」でtwitterに検索を掛けては感想を漁り「こいつは敵、こいつは味方……こいつは敵!」みたいな事をしていました。みなさんも、「ジョーカー」ご覧になった方はみんなやりましたよね?

 ところで、ある種のリトマス試験紙と言えば「コラテラル」も私にとってはそうなんですよ。「ジョーカー」では明らかに「コラテラル」のクライマックスをオマージュしたシーンがあったんですけどそれは多分、監督の「ジョーカー」に対するある種の自覚を反映していると考えてもそこまで突飛じゃないんじゃないかな……と思う訳なんです。

 これは「コラテラル」を見た方に質問なんですけどマックスとヴィンセントのどっちに感情移入しました? 私はヴィンセント派です。マックス派とは解り合えないな。

 「ジョーカー」の感想に戻りますね。公開直後「ジョーカーで描かれている絶望にはタクシー・ドライバーで描かれていたそれほどには深みがない(大意)」という感想を私は目にし、当時はおおいに頷きました。実際に「ジョーカー」で描かれている絶望はほとんど芝居の書割か、あるいは隠喩のための小道具みたいなものに感じられ、絶望を見る映画ではない、というのが私の認識でもありました。

 ただ、今にして思うとそうでもなかったように思いますね。少なくともパンイチで冷蔵庫に入るシーンはすごく良かった。いや、大マジな話ですよ。

 「ジョーカー」は切断や去勢(どちらも最近覚えた言葉なので使いたくてしょうがない)に対する抵抗の話だと今の私は思っていて(そして、それは「タクシー・ドライバ―」や同監督作の「魂のゆくえ」もある程度はそうだと思う)そういう意味では「ジョーカー」のエンディングは主人公アーサーにとっての悪夢だったのではないだろうか。

 「ジョーカー」の作中、アーサーは要所要所でダンスする。特に重要と思われる場面では特別な、コンテンポラリーダンスのような奇妙な踊りを踊る。もっともそれを最後まで果たせたのは一度だけで三回踊ろうとして二回は未遂に終わった。

 一回目は殺人の直後で、これは最後まで踊りおおせた。二回目はテレビ撮影の袖の中、踊ろうと空に向かって手を差し伸べて、音楽が掛かりアーサーはそれに合わせて体を動かす事を余儀なくされた。三回目はパトカーの上だ。やはり踊ろうとして空に手を伸ばすも、群衆の声に応えて作り笑いをしなければならなくなった。三回目はどことなく戸惑ったようなアーサーの面影が特に印象的だったように感じた。

 そして、エンディング。「理解できないさ」のくだりがあって、ピエロみたいに廊下を走り回っておしまい。

 結局、アーサーが自由に踊れたのは最初の一度だけでなぜ彼が踊りおおせたかと言えば彼が誰にも見つからない場所にいたから。「ジョーカー」の作中では個人と社会は徹底して対立するものだと描かれているように私には見えた。さらに言うなら、やっとの思いで手にした救済は時間や持続と対立していて、あっと言う間に揮発してしまう。それは常に過去に属す物になる宿命にあるのだ。

 アーサーにとっての本当の絶望はジョーカーになる前ではなく、なった後に待ち受けていた。

 「タクシー・ドライバー」「魂のゆくえ」のポール・シュレイダー監督両作品にはこういうシニカルさは無いように思う。

 両作品では道徳や善悪などの、社会との関係に属する関心事はそれなりに重要な物として終始物語の前景を占めていた。したがって怒りには正当な理由が必要で(トラヴィスベトナム帰還兵で、トラー牧師は息子をイラク戦争で失っている。両作品とも戦争に対して批判的な立場を取っていると思うのだが同時に戦争の神聖さを利用してもいる)、最後には他者との関係が救済の糸口になって希望や、悪なる世界に対する局所的な勝利を仄めかして終わる(昔、カレ・ブランという映画があって私は結構その映画が好きなのだが、それも大体こんな感じだった。一つの王道なのかもしれない)。

 「ジョーカー」の世界では一切に価値がない、価値がある瞬間は確かに存在したけれど、それは常に過去で、言ってみれば幻想だ。激怒する事にも救われる事にも一切、資格は必要ない。もっとも、救済など存在しないが。アーサーは救われたことがあるような気がする……というあいまいな感慨を胸にジョーカーとして日々をやり過ごしていくだけだ(そして、そういう感慨を持つことのできるアーサーは比較的恵まれてる方だ!)。

 まあ、実際にそうなのかもしれない。かの料理マンガの名作「包丁無宿」でも「膳にすごくおいしいのが一品も入ってたらそれで大満足(大意)」みたいな台詞があったし、そういう事じゃないですかね。

 最後に、なんかこの記事が「タクシー・ドライバー」「魂のゆくえ」ディスみたいになってしまったのにものすごく恐縮している。もちろんだが、私はこの二つの映画がすごく好きだし名作だと思う。素朴さは必ずしも欠点ではなく、作品の凄味みたいなものに繋がることがあるし、この二作品はまさにそれだ。「ジョーカー」のトッド・フィリップス監督作は(とはいっても「ジョーカー」の他はハング・オーバー! シリーズしか見ていないのだが)しばしば観客に対する醒めた視線を感じてビビりあがってしまうが(やっぱり、それはそれで凄味がある。監督を人間的に好きになれるかは別として)、ポール・シュレイダー監督作にそういう突き放したところは感じないし、なんならやや様子のおかしい感じではあるものの人のよさそうな面影に心を痛めたりもする(「タクシー・ドライバ―」は1976年の作品、「魂のゆくえ」は2017年の作品だから、ポール・シュレイダーは41年間も鬱々とした事を考え続けていた事になる。悲しい事だ)。

 ところで、ここまで書いてるうちにすっかり記事を終わらせるタイミングを逸してしまったのでこの辺で無理矢理終わりにしたいと思う。なんかちょっと疲れちゃったので。

 そのうち「マンディ 地獄のロードウォーリアー」とかの話もできたら良いですね。知ってましたか? あれのプロデューサーはイライジャ・ウッドなんですよ。この前、友人の誘いでタイムマシンの試運転を見て来たんですが、幸運にも自分も乗せてもらえる機会がありまして過去の自分に「ニコラス・ケイジはなんか最近めちゃくちゃパンプアップして変な映画に出捲ってるし、rotrのフロドはスラッシャー映画で殺人鬼の役をやりまくった後、変な映画のプロデューサーをやってる」と伝えました。なので、あの世界線の私は恐らく、無職のひきこもりになる運命を回避できたことでしょう。

 あと本当にこれは最後に。今調べたら「タクシー・ドライバー」の監督はマーティン・スコセッシポール・シュレイダーは脚本担当らしい。だから余所では「タクシー・ドライバー」の監督はポール・シュレイダーみたいな体で話をしたりするなよ。恥をかくぞ。

 最後まで記事を読まなかった奴は「タクシー・ドライバー」の監督がポール・シュレイダーみたいな体で話をして恥をかけばいいんだ。

 ヒヒ……ヒヒヒ……

 そんじゃ、またね!