qaaaaaaaの雑雑雑ブログ

ふにゃふにゃふにゃふにゃ……

最近のふにゃふにゃ

 この前、kindle殺し屋1という漫画を読み返したのがだがかなり面白かった。以前読んだときには気が付くことのできなかった、この世の他者性を楽しむ、ある種の超人としての垣原組長の姿が半端なくかっこよかった。彼が折に触れてこだわる「SMの必然性」(つまり、サディストはマゾヒストの本気の抵抗を乗り越えたのでなければサディストはマゾヒストにとっての絶対的外部ではありえないし、また、そのような存在でなければサディストはマゾヒストに対して決定的な絶望、垣原組長の望むような絶望を与える事はできない……らしいです。難儀すぎる)という概念は非常に普遍的で面白い物に思えるし、そういった事柄をSMや歌舞伎町という題材を使って描き出す作者の人のセンスは、本当に卓越していた。
 ところで、超人と言えば、最近「Mr.ガラス」と言う、超人をテーマにした映画を見た。超人を”治療”しようとする秘密組織や、今作の主人公であるMr.ガラスが超人の存在を確信した経緯(ガラスのように脆い私がいるならば、反対ベクトルにも外れ値は存在するはずだ!)など、ユニークなアイディアが各所にちりばめられていて面白かったが、個人的にはその中でも秘密組織から派遣されてきた精神科医のコミック論(コミックは欲望と願望の塊だ)に対するMr.ガラスの論駁(コミックとは人間の能力と、それを目の当たりにして抱いた感覚の記録である)が、最近、カフカセリーヌを少し読み、感覚的リアリズムという語を頭の端に留めていたという事情もあり、私には印象的に思えた(現実とはなんなのだろう……)。あと、三人の超人の中では実は「ビースト」が一番好き、彼の思想(失意の者こそ最強だ)になんとなく親近感を感じるし、闘う前に必ず服を脱いで咆哮するのがシュールでもあり魅力的でもある(そして、その仕草にはある種の必然性が感じられる。ビーストは恐らく三人の超人の中で最も自分の能力に対して懐疑的なので)。
 激しく話は変わって、最近、私は小説を書こうとしているのだが全然うまくいってない。最も深刻な問題は自分の関心がいまいち定まらないところにあるのだが、副次的な問題の一つにある種の能力の欠如があると思う。その能力と言うのはつまり、自分にとっての必然性に従って話を作る、展開を作る、出来事を作る能力であり、自分がこれまである種の推論に任せてストーリーを作っていたという事を痛感した。今、私が考えている作品の戦闘シーンにはプロレス的論理が必要に思うのだが、それをうまく想像することが出来ない(というよりもそれは内発性のような物を要求する類の物なのかもしれない)。なんかやっぱりいくつか材料が足りないような気もする。
 結びに、ここまで読んでくれたこのブログの読者の方にはお礼を言いたい。ありがとう。厚かましいようだが、ついでに、古代ローマ帝政期におけるキリスト教徒の魔術やエクソシズムに関してお勧めの資料、あるいはお気に入りの武侠、カンフー、道士を題材にした作品があれば是非とも教えてもらえないだろうか……。
 そいじゃ、おつquaaaaれー

 追伸 今回、話題にした三人の超人の内の一人、「ビースト」は以前、私がこのブログで話題にした映画「ザ・ビースト」とは何の関係もないです